「こっちへおいでよ、カワイコちゃん。」

最初、誰に向かって言っているのか判らなかった。
まさか私だとは。

いいや、おそらく私の大脳が、それを私の事だと認識するのを拒否していたのだろう。
簡単に言えば、自分だと思いたくなかったのだ。

なぜなら、それは記憶の奥深くに眠らせていた呼び方だったから。
私を「カワイコちゃん」なんて呼ぶやつ。
過去に置いてきた私の………、苦い思い出。





ずっと家に籠っていても仕方ないので、気分転換でもしようとノラの店に来ていた時だった。
ノラはいまや大所帯となり、最初は簡素な造りだった店も拡張され、小さなホテルの様になっている。
崖を這うように建て増ししたようだが、ちゃんとサボテンダーの通り道を作っているあたりが微笑ましい。

知った者にからまれると面倒だと思ったが、客はもちろんのこと働いてるスタッフにも親しい者はいなかった。
あちらは私の顔くらいは心得ているようだが、軽く会釈をされた程度だ。

見慣れたグラン=パルスの景色も、たまにこちら側から見ると新鮮に思える。
とくに何も無い所だというのに、不思議なものだ。
出不精しすぎていたせいだろうか。

とりあえずテラス席でお茶でも飲もうと思っていた。
相変わらずサボテンダーがせわしなく走り回っていて、縄張りを荒らされて腹を立ててるかと思いきや、観客が増えてまんざらでもないようだ。

殺伐としながらも平和な光景。
グラン=パルスのいつもの風景。

今にして思えば、やけに浮いてる奴がいたのだが、平和すぎて平和ボケしていたのかその時はさして気にもとめなかった。
いや、そいつは敵ではないのだからそこまで警戒する必要もないのだけれど………。




≪カワイコちゃん≫


気味の悪い呼び方をされて、その声の主の方へ振り返った。
嫌な予感はしていた。

あらためて見る、テラスの席にゆったりと腰掛けた女。

少し青みがかった白のスーツ。
同じような白で、つばの広い大きな帽子。その下へ金色のロングヘアがまっすぐと流れている。
この平原には似つかわしくない上品な出で立ちだ。
しかし足元に目を遣ると、びかびかとしたシルバーのピンヒール。ヒールは黒で、その先が金。

下品とまでは言わないが、大人しい女性の履く靴ではない。
大体ここらには舗装された道なんて無いのに、あんなのでどうやってここまで来たんだか。

だがそいつにはそんなの関係ないことを私は知っていた。
知っていたんだ、その女を。

「ちょっと見ないうちに立派な腹になったねぇ。元気にしてた?」
「あんたは………。」

ちょっとだと?
胃の辺りが熱くなった。
数年をちょっとと言うのか。
私がこの女と最後に顔をあわせたのはもう何年も前のことだ。
この女にとってはそれ位の、どうでもいいことだったんだろう。

「ここに座んなよ。」

言葉に促されるままに隣に腰を下ろした。
こんなとき、こんな場所で会いたくはなかったのに。
けれど、会えば言いなりになってしまう。

なぜなら…………、私は昔この女に恋をしていたから。
たぶんホープと同じ、子供の恋を。










私にも子供だった時代はある。
私も幼かった。

この女と出会ったのは…………、臨時でやってきた特別指導教官、だったか。細かいことは忘れてしまった。
あの頃の私は、今思えば生意気の塊みたいなガキだった。
いまもそうだろうと言われそうだが、これでも少しは分別がついてきたつもりだ。

初めて見たとき、頭のイカレたのが現れたものだと無感動に思ったのを覚えている。

教官と紹介されて私たちの前に立ったそいつ。
この時から既に、イカレてるとしか思えない20センチほどもあるピンヒール、そしてスリットの大きく開いたスカート、脇からガーターベルトがのぞいているという出で立ちだった。
爪も長いし、髪の毛なんて頭頂部だけをロングにして他の部分は剃り上げている。
これが教官だと?気味の悪い女、そうとしか思えなかった。

だが教官というだけあって腕は確かで、いや、それは凄まじいとまで言っていいほどだった。
紹介された側どころか、紹介した側の教官たちも女の実力を計りかね、軽く手合わせしようとの提案がなされたのも無理もない。
本当に何が何だかわからなかったのだ。
後から耳にしたことだが、臨時にも程があるというくらい急な配属だったという。
なんとかいう高官の直々の命令だとかで、仕方なく受け入れたとか。噂話にすぎないレベルだったが。

だから元の教官達も納得がいかず反発もあったんだろう。
いっちょ揉んでやろう、そんな軽い考えだったはずだ。

そして何もわからないまま、瞬く間に全員がそこらに寝っ転がるという笑い話のような事態が起きた。
新人だった私たちはもちろん、元から居る他の教官たちも悉く地面にたたき伏せられ、立っていたのはたった一人その女だけ。
まるで何事もなかったかのように。

ガキだった私にとって、その光景がとても崇高で神々しいものに見えた。

あの時、あの姿を見て私は憧れを抱いたんだと思う。
強くなりたかった。
誰も近寄れないほどに。

あの女のように。

周りの者たちが、どうしてあんな凄腕がたかが新人教育のために送り込まれたのかとしきりに首を傾げていたが、私にはそんな事どうでもよかったし、当然知る由もなかった。
強くなろうと必死だった自分は、あれこれ深く考えることを放棄していた。

しかし、これ幸いと言おうかどういうわけだか、私はその教官に目をつけられた。
態度が生意気だったから、きっとそれもあると思う。
けど、そういう意味ではなく、なんというか………………女として目をつけられたのだ。
その女教官に。

はじめは、女同士なんて気持ち悪いと少しは思った。
では男が好きなのかと言われたら………、はっきりそうだと言えるほど男好きでもない。
じゃあいいだろう?と、なしくずしにそういう関係になった。
何度も言うが子供だったし、私は割と流されやすい性格なのだ。認めたくないけれど。

その昔の女が、いま目の前に居る。




「あんたねぇ、爪くらい塗ったら?せっかくプレゼントを用意してきたんだからさぁ。」
「プレゼント?ここに来たのは偶然じゃ無いのか?」

どういうことだ。私がここに来たのが偶然で、本当は私の家まで来るつもりだったのか?
何の連絡もなしに。

「ああでも、いまはどっちみち着られないか。」

女はそう言いながら大きな紙袋を脇からテーブルに上げた。
プレゼントとは服らしいが、確かに今は体型が違うのでよほどゆったりした物でなくては着られないだろう。
それ以前に私と会うのは数年ぶりのはずだ。なんでサイズもわからないのに服なんて選ぶんだか。

広げられたそれは、持ってきた者とは対照的に目を射るような真っ赤なスーツだった。
レースをふんだんに使ったブラウスも付いている。

「これ、私の死んだ恋人が着てたんだ。あんたに合うように仕立て直してきたけど、それでも今は無理だね。」
「ちょっと待て。死んだ恋人の服?どういう神経でそんな物を持ってくるんだ!」
「似合うと思ってさ。それにね、彼女は凄い騎士だったよ。彼女の魂があんたに宿るように、ってね。」
「何が魂だ。そんなこと信じてるのか?」
「いや、全然。」
「なっ……、この………。」

なんなんだ一体。いきなり現れてプレゼントだの死んだ恋人だの。
ああ、そうだ。あの時もいきなりだった。
急に消えたんだ。別れの言葉もなく。

私は愛されてると思ってた。
私だけ特別に目をかけられ、見込まれてると、大切にされてると思ってた。
小娘もいいところだったから考えも甘かった。

強い者に愛されてると思い込み、酔っていたんだ。

「でもまあ、そう聞けばそういう気持ちになったりするじゃない?効果あるかもよ。」
「ふん、だいたい何が騎士だ。またお伽噺か。」
「いいじゃない。ファンタジー、嫌いかい?」
「今更そんなもの。現実の厳しさが際立つだけだろうが。」
「相変わらず堅くてノリが悪いねぇ。自分で足開けるようになったぁ?」
「……これがその結果だ。」

結果とはつまりこの腹だ。
一応、あれは無理矢理開かされたという建前にはなってるが。

「なるほど………。よかったよ、幸せそうで。」

女は強引に私の爪を塗り始めた。それだけで、今も私を遙かに凌ぐ力の持ち主だとわかる。
それにしても冷たい手だ。細くて長い指だが、節々がごつごつしている。
触れられた手から、冷たさに反して熱のようなものが這い上がり胸をざわめかせた。

「あっさり私を捨てておいて、よくそんなことが言えるな。」
「うん?捨てられたと思った?」
「それ以外何がある!いきなり消えたろう!」

答えは返ってこない。
所詮あの時だけの遊びだったんだろう。そんなのわかってる。今更声を荒げたって意味が無いんだ。
しばしの無言。
テーブルの上のカップが脈打つようにかちゃかちゃと震えている。亀が近くを歩いているのだろう。
二人の間には沈黙が訪れたというのに、世界はドスンドスンと無粋に唸りだし、揺れに眉をひそめながら女は手を止めた。


わかっているとは思いながら、答えをもらえないことに腹が立ち、悔しくって何でもいいから何か文句を言ってやろうとした次の瞬間?????、今度こそ本物の目眩に襲われた。
吐き気のするような浮遊感、それに皮膚を切るような空気抵抗を感じた刹那、自分の視界が異様な高さにあることに気付く。
体は仰向けに抱きかかえられている。それこそお姫様のように。

「あ………、なっ……。」
「掴むんじゃないョ。まだ爪固まってないんだから。」

これは…………、ここは亀の上だ!

「ど、どうやって…………。」

転送装置やグラビティギアを使った気配はない。なのにどうやって?
それにあの靴で亀の甲羅の上に立っていると思ったら、相手に身を委ねるしかない恐怖で、緊張して声が上手く出せない。
大体こんなの人間業じゃない。それはまさか、…………人間じゃないのか?
恐怖に加えて疑念が湧き、鳥肌が立った。


「あんたさ…………。」

“あんた”――――。懐かしい響き。
この女が“あんた”って言うから、私も自然と“あんた”を使うようになったんだっけ。
苦くて甘いような記憶が蘇る。

昔も、この腕に抱かれた。
あの節くれ立った指が、私を女に変えた。
あの頃は、可愛げのない私でもこの女を信じていた。

なのに今は不信でいっぱいだ。まさかファルシじゃないだろうな。
疑惑に押しつぶされそうではあるものの、ファルシが人間とあんな事をするかと思うと、その考えは無いような気もする。
だが思い起こしてみれば、セラに化けたダイスリーは意味も無くスノウに抱きついていた。
ありえなくないのか?

「あんた、何の為に剣を持ったのさ。」
「何を言ってるんだ。私の問いは無視か!」
「うん、それは無視。ねぇ、なんで?」

亀の歩く揺れのせいで、帽子がだんだんとずれ、そして落ちた。髪の毛ごと。
あの時と同じだ。黒髪を剃り上げて頭頂だけを伸ばしている。
相変わらずイカレた姿だ。
こんな奴に話なんか通じない。通じっこない。何を期待してたんだ私は。こんなやつ頭おかしいに決まってる。
こんなのに抱かれて喜んでた私も、きっと同じくらいおかしいんだろう。

「………妹の為だ。」
「ふぅん。………そりゃあつまり自分の為だね?」
「それはっ………。」

そうなんだろう。
妹の為、それは妹を大切にする自分の為。
誰かの為じゃない。
まして、コクーン市民を守る為なんかじゃない。

私は私達のことしか考えてなかった。
特に高い志なんて無く、自身の親しい者のことぐらいしか考えられない小さい人間だ。
別に高い志を持たないことを恥ずかしく思っていたわけじゃないが、面と向かって言われると後ろめたく感じる。

「別にそれでいいじゃん。気に入らないもんはみんなぶった切っちまいな。」
「私はそんな無法者じゃない!」

亀は一見のったりとした動作で、その実おそろしい速さで進行の向きを変え店から遠ざかり始めた。
女の腕に抱かれたままの私は、どうすることも出来ずただ身を硬くする以外ない。
正直怖い。
ギアも魔法も使わず、こんなところに立っているなんて、いくら私でも怖い。

抱かれながら見上げるその女の顔は、すっきりとした卵形の輪郭で、眉を細く整え、薄い唇と大きいが小さい瞳の目が冷酷そうに見える。

「法なんて世界がぶっ壊れたらどうでもいいじゃん。」

奇矯な格好をしていても顔立ちは美人なのに、しゃべるとこの有様だ。ひどいやつだ、ほんとに。

「法が機能していなかったとしても、道徳観念くらい残ってる。あんたは違うのかもしれないがな。」
「私はこれでも犬なんだよ?ご主人様の言うことはきくさ。」
「なんだと?」

本気で驚いた。
およそこの女から発せられた言葉とは思えない。
このぶっとんだ奴が自分を犬だと称するなんて。しかも主の言うことをきく?
犬なのを認めたとしても狂犬にしか見えない。
本当なのか?
いや何が本当なんだ。
この女は一体何者なのか。

「私が言うのもなんだけどさ、剣を持つくせに誰にも仕えない奴なんてそれこそ無法者だよ。」
「………。」
「否定したいのなら、あんたも犬になるしかないね。理由も知らずに誰かを殺し、一生会うこともない誰かの為に命を投げ出す。……その覚悟、出来る?」
「わ、私は………。」
「まあ、その腹が引っ込むまではそんなこと考えなくとも良いけどさ。」

結局私も野良犬に過ぎないということか。
組織を離れればそれは当然だが、あのアイツらと同じかと思うと情けなくなる。

景色がゆがんで視界がぐらぐらと揺れた。
何もかも、世界も自分も揺さぶられている。
心までも。

「………説教か。」
「あんたが可愛いんだよ。」
「なら、何でいきなり消えた!何の一言もなく!」
「寂しかった?」
「………っ!」

その通りだ。

淋しかった。不安だった。
やっと頼りに出来る庇護者を得たと思っていたのに。

信じていたものに捨てられて、もう誰も頼るまいと心に決めて、そして私は心を閉ざした。

「私は自分の意思で自由に動けるわけじゃないからね。あんたの傍にずっとはいられない。そういう相手は別に探しな。」
「酷い………やつだ。」

喉の奥が詰まったような声しか出せなかった。
ふと気付くと、方向を変えたと思っていた亀がノラの店の方へ向かっている。

「あ、こいつまさか……。」

亀があんな縁にまで足を進める事は無い。そんなことをすれば重みで崩れてしまうだろう。
だが、歩みをとめる気配はない。何かに気を取られて苛立ってるようだ。
まさか私達のせいか?

「このままじゃ……。」

突然上に突き上げられて、体がふわりと浮いた。
自分が空中にいるとわかった途端、何とか腹を守らなければと一瞬のうちに頭をフル回転させたのも空しく、落下を始める肉体に絶望しかかったとき、私は再びがっしりとした腕に包み込まれていた。
見る間に視点が低くなり、信頼できる大地に降り立つとともに巨大な何かも降り注いでくる。

辺りを埋めていくのは亀の破片。
私がルシだった頃、同じルシの仲間と束になって倒していた相手を一瞬で………。

圧倒的過ぎる。
この力を私達に貸していてくれたら、あんなに苦労する事は無かったろうに。
この女が敵ではないというならば、だが。

「……教えてくれ。あんた何者なんだ、スパーク。」

スパーク。
たぶん本名ではない。
私が “ライトニング” になったように。

「だから犬だよ。ご主人様の言いなりさ。」
「主人って誰だ!ファルシか!?」
「なにそれ?」
「何って……。違うのか?」

何を言っているのか解らない。
やっぱり私は弄ばれてるんだろう。

「…………もう行かなくちゃ。」
「また無視か!」

ほら、これだ。

「あのね、もう壊れちゃった世界なんだから、あんたの好きなように生きな。もし必要なら……。神でも悪魔でも真っ二つにしてやるからさ。」
「そんなの!もっと早くして欲しかった!」

私だって誰かを頼りたかった。
誰かに守られたいと……、この私だって……!

「でも自分達でなんとか出来たでしょ?自助努力もしなくっちゃね。……じゃあね、バイバイ。」

何が“バイバイ”だ。
しかしそう思っても、喉の奥が何かに押さえつけられたようで、言葉にして発する事は出来なかった。




気がつくと私はさっきまで居たテラス席に座っていた。
近づいてきた大亀が突然『解体』されて、客も店の人間も騒然としている。
目の前の騒ぎを見ても、そのけたたましさは耳に綿でも詰められたように遠くに聞こえ、しばしの間ぼんやりとその様をみつめていた。

束の間私達がここに居なかった事など、誰も気付いていないようだ。
今ここに残っているのは私だけだったが、それも誰も注視しないだろう。

私はひとりでここへ来た。
だから帰るときも一人。

ほんの少し昔の事を思い出しただけだ。
ほろ苦く、甘酸っぱい昔の思い出。
結局何もわからなかったし。

若い頃の恋なんて実らないもの。
たとえ想い合えることができても、そもそも同性では“実り”なんて在り得ない。

そう割り切るつもりだったが、膨らんだ腹を見るにつけ、意中の相手に実りをもたらす事に成功した少年を、少し……憎いと思った。