soprano solo







その人がここヲルバ郷に来たとき、その人はまだ意識不明の状態だった。
だからその人は自主的にここへ来たのではなく、運び込まれてやって来た。

ここヲルバ郷は、私の夫が自分の親しい者達を引き連れて興した小さな里。
夫に連れられて初めてこの地を訪れた時、そのあまりの不毛さに私だけでなく夫を慕う者たちもいささか息を呑んだ。

その景色は、見渡す限り白いクリスタルの粒子に覆われていて、美しく澄んだ湖はあれど、そこに命の気配を感じることは出来なかった。

動くものは、遥か昔に人であったシ骸とよばれる魔物たち。
佇むものは、朽ち果てたかつての異文明の建物たち。

夫は私を連れてその中のひとつ、おそらく小さな子供のための学校のような建物に入り屋上へ上がると、そこでひっそりと揺れる花壇の花の前でぽつりぽつりと語り始めた。


なあ、俺がここで―――、この花を守って暮らしていきたいって言ったら、……みんな笑うかな?


夫は体も大きいし、いつでもどんな状況でも自信たっぷりで、周囲の皆からヒーローと呼ばれて信頼されている人だけど、ふとした折に見せるこの照れたような表情がとてもかわいくて……、私はずっと好きだった。


……みんなはそうかもね?


かくいう私もクスリと笑いながら返した。
この不毛な――色のない世界に、この一角だけが命の色を咲かせている。


この花を守って――、いやもっと増やしてここを花いっぱいにしてさ………、それで皆で笑っていられたらいいよなぁ。


夫のその気持ち…………。
かつてここに住んでいた人々の、最後の2人とは少なからず縁がある。
私達を救うために命の時間を止めてしまった二人。


花いっぱい、みどりいっぱい、人もいっぱいになって………、帰ってきたやつをあったかく迎えてやれるような所にしたいんだ。


いつ戻るかもわからない二人の為。
ここで生まれ育つであろう次の世代のため。





夫のその言葉は、少しづつ実現されつつある。
建物を修復し、あるいは解体し新しく建設して集落を作り、離れた土地から土を運んで適した作物を模索し、湖に生態系を作り上げる実験に着手しはじめた。
シ骸という魔物は生物系の外敵と違って一度滅してしまえば増えることはない。
このヲルバ周辺で、人をシ骸に、その前段階であるルシに変えていたアニマというファルシは今はコクーンの中で休眠状態だという。
ファルシと呼ばれる半機械の超存在は他の者たちもルシを造るが、広範囲に出没していたダハーカというファルシは姉や夫達が倒してしまったそうだし、他のファルシはルシを造るのにあまり積極的ではないらしい。
この辺りでは、どこかのファルシがわざわざ出掛けてきてルシを造る、なんていうことはないそうだ。
ならば近寄らなければいい。
私自身も一度はルシにされた経験があるけれど、早くにクリスタルになってしまい、世界が激変するさなかのことは全て後から伝え聞いたことだった。
ともかくそのアニマが近くにいない今ならば、ルシやシ骸といった脅威は、それほど気にする必要はないということだ。


外で子供達のはしゃぐ声が聞こえる。

「騒がしいでしょう?ここはとっても子供が多いの。」

私はその人に語りかけた。
夫が孤児院育ちなこともあって、このヲルバ郷でも早い段階で孤児を引き受けた。
夫を慕うものたちの中にも、同じ孤児院育ちのものが何人もいる。
私も彼らの助けになるように、保育や看護、子供向けの調理や裁縫など日夜勉強に忙しい。
それになんとつい最近、私のたった一人の家族である姉に赤ちゃんが出来たというので、喜びと不安にやきもきしながらも幼子を迎える準備にいそしんでいる。

その人は顔面を引き攣らせて、笑ったようだ。

その人がここに運び込まれてきた時、その様を見た誰もがここで手に負える状態ではないと意見した。
意識不明。
体中に無数の傷があり、顔面の損傷も激しく身元もわからない。
もっともそれはその人だけではなかった。
PSICOMという組織に所属していた人々は皆、本来あるはずのデータが消去されどこの誰とはっきり証明出来ないでいた。
こういうと、身分証明のないものがPSICOMのものとなってしまいそうだが、あの騒ぎで身分証を紛失した者など掃いて捨てるほどいる。
公の身分のものならともかく民間人の生体情報からのデータ照合は、コクーンという故郷が火を落としてからは叶わなくなっていた。

夫はその人を、自分の知っているロッシュという人物に違いないと言い張った。
よしんばそうであったとして、この新しい集落には子供達の為に診療所をもうけたものの、本格的な設備のある病院には程遠いのに引き取ってどうするつもりなのかと、夫を責める声も上がった。
それでも夫は、大きな病院で適当に扱われるより、ここで手厚く看病がしたいのだと言って聞かなかった。
夫は自身の言葉どおり、忙しい合間を縫って、まるで新しい恋人でもみつけたように甲斐甲斐しく看病をした。
ときに話しかけ、清拭をし、下の世話まで。

その人が目覚めたときも、夫とふたりの時だった。
流石に夫は、違ったら失礼だと思ったのかいきなりロッシュだろ、とは言わなかったようだけれど、まだ信じているようだ。
その人は声帯がつぶれてしまっていて、言葉をしゃべることが出来なくなっていた。
筋力も当然衰えてしまっていて、弱々しく手を上げるのがやっとの状態。
それでも夫は喜んで、前にも増してちょくちょく顔を見せにやってきていた。

姉の話によると、そのロッシュという人は、夫や姉達と幾度となく銃口を向け合った仲……、つまり殺し合いをした相手だという。
姉達が無事ということは、そのロッシュという人が敗北したことになるのだろうか。
けれど、姉はその人の最後を見届けたわけではないと言っていた。
夫が思い切れないのはそのせい……。

夫はとても優しい人。
自分に刃を向けた相手にも、厚い情をかける人。






その優しい夫が、珍しく怒声を上げたことがあった。
身長2mを越す夫が大声を張り上げれば、関係のない者までもがすくみ上がってしまう。
案の定、それを見ていた子供達が泣き出してしまい、近くにいた女性がなだめていた。

「バカ野郎!いつまでもガタガタ言ってんじゃねぇっ!」

私はその時、ちょうどその人の所に食事を運んできたところだった。
その人は上体を起こせるほどに回復していて、柔らかいものなら固形のものも食べられる。
治療しながら顔の整形手術を数回施されているものの、元の顔の写真などがないため骨格から予想された大体の複顔でしかなかった。
それに右目を失っていて急ごしらえの人工物で補い、声帯も同じく人工の無機的なものを納められている。
本当は本人の細胞から培養した物を入れるのが一番良いのだけれど、なにしろその技術を必要とする怪我人・病人が山のようにいて、中々順番が回ってこない。
その人は、かろうじて筆談が出来るようになった頃、自分は後でいいと夫に告げていた。
それを見た夫が、さすが軍人さんだと笑いかけていたのを覚えている。

軍人、なのは間違いないようだったけど、その人は過去のことは何も覚えていないという。
そういうことは確かにあるけれど、言いたくないだけかもしれない。
もとPSICOMの人は大抵そうだから。

「いいか!確かにこいつらはあの時俺らを撃った奴かもしんねえよ!人も殺してるかもな!」

夫が叫んでいた。

「けどなあ、俺だって殺してるよ!お前らだって撃ち返したろ!俺達は何かお互いに恨みがあって殺しあったのか?違うだろ!」
「こいつらは罪もない人々をいきなり撃ったぜ。目の前のこいつかどうかは知んねぇけどよ。」
「俺達だって撃ってきてない奴を流れ弾で殺ったかもしんねぇだろ。」
「……………。」
「PSICOMなんて組織はもうねーんだし、全員が端っから人殺し集団ってワケじゃねえんだから、いちいちつっかかるなよ。」

PSICOM。
中空に浮かんでいた私達の故郷コクーンを、下界から守っているはずだった組織。
けどそれはまやかしだった。
侵略してくると信じ込まされていた下界には、人なんていなかったのだから。
組織を成す人たちもそれを知らなかった。
今は解体されてしまって、もうない。
だってもうコクーンは機能を停止してしまって住めなくなり、みんな下界へ降りてきてしまったんだもの。
存在意義を失ったのだし、なによりそれ以前に、騙されていたと知らされた兵士達は精神崩壊寸前にまで追い込まれていた。
その行為が故郷を守るためと信じていたからこそ、殺戮に手を染めたのに……それが嘘だったなんて。
一体何のために殺したのか、何のために殺されたのか、答えは知ってはいるけど……それは人間にとって残酷すぎる現実。
コクーンの全ての人々の命を奪う計画の一端。
それに加担させられていたと知って、平気なわけはない。
また、親しいものを殺された人々も、頭ではわかったとしてもきっと恨んでしまう。
PSICOMの個人データを消した人は、それを恐れていたのだと思う。

いまこのヲルバ郷には、元PSICOMの兵士が何人もいる。
夫が受け入れたのだ。
解体され行き場を失ったかつての敵を面倒見ると夫が公言したことにより、少しずつ1人また1人とやってきた。
身元を隠すことも出来るのに、夫を試すかのように素性を明かして来たのだそうだ。
しかし夫はそれで良くても、他の者はそう簡単に割り切れない。その頃からなんとなく、ヲルバ郷にぎくしゃくした空気が流れ始めた。
いま夫が声を荒げているのも、小さないざこざがこれ以上続くのを見ていられなかったんだと思う。

「彼は頭が良いな。」

どことなく機械的な声。

「ええっ。」

夫のことを莫迦という人は多くいるけれど……、もちろんその言葉には愛が込められている事が多い(と信じている)のだけど、頭が良いなんて言う人は見た事がない。

「私のようなものにまで親身になって看病して、他の者にもあれだけ擁護してやれば、そのうち彼らの信頼を得て噂が人を呼び、良く訓練された兵士達がぞくぞくとやって来るのではないかな。」
「そんな……あの人はそんな深い考えなんて持ってないと思いますけど。」
「そうかな……?なかなか人身掌握術に長けていると思うのだが。」
「いいえ、きっと本当に何にも考えてないんです。ただそれだけなんです。」
「………そこに惹かれて皆集まってくるのか。愛されてしかるべき男だな。」
「そんなに褒めてくれる人、あなたが初めて。」
「すぐに誰もかもが褒めるようになるだろう。」
「みんな、そんなに素直な人ばっかりかどうか……。」
「君はかわいい顔の割りに言うな。……まあ、心栄えの良くないものも寄ってくるかもしれないが、人が増えればある程度は仕方ない。」
「冷静なんですね……。あ、お料理冷めちゃうから、召し上がって。」

この時ほどの騒ぎは、その後は起こらなかった。




それからしばらくして、姉がヲルバ郷を訪れた。
もうかなりお腹の目立ってきた姉は、少し歩くだけでも、ふう、と息をついている。
以前の姉からは想像も付かない姿だ。

私と姉は幼い頃に相次いで両親を亡くして、私の面倒は姉が見てくれてきた。
姉はいつも私の事を最優先に考えてくれて、そのせいで自分を犠牲にしてきたのではないかと思うけど、子供が出来てからはその子供を、ひいては自分を大事にするようになってくれて、とてもよかったと思う。
ほんのちょっぴり、淋しい気もするけれど。

姉がその人に会ってみたいというので尋ねてたところ、快く承諾してくれた。
私は席を外していたのでどんな話をしたのかわからないけれど、窓の外を横切った際にふと目を遣ると、その人は姉のお腹に優しく手を当て、顔は見えなかったが心なしか肩が震えているように感じられ、泣いているようにも見えた。




「もう、行ってしまうの?……もっとゆっくり体を休めた方が……。」

その人はなるべく早く退院したいと言っていた。

「いつまでも世話になっているわけにはいかない。自分に出来ることがあるなら、それをしなければ。」

その人が退院した後、どこでどうやって暮らしていくのかわからない。
夫と良く話をしているから、その後のことも夫が手配しているのかもしれないけれど、私は詳しく聞いてはいなかった。

いつまでも引き止めてはいられない。
引き止める理由もない。
いいえ引き止めたことなんてなかった。
いまは誰もが、誰かに寄りかかりきって生きていくことなど出来ない。
話し振りから真面目そうな印象を受けていたから、世話になりたくないと言い出すのはそれは当然のこと。
ここには治療の為にいるだけなのだから、いつか出て行くのは当たり前だけど。
だけど………。
ああ、もしかして私は………。





その人は顔を上げ、思っていたよりしっかりした足取りでここを出て行った。
別れ際に、姉の安産を願っていると言い残して。

別れはどれも悲しいものだけど、それまでのものとは違う、なにか大きな穴が胸に開いたような気がして……。

立ち去るあの背中を見たとき、なにかが私の体の奥から込み上げたような気がして……。

けれどそれは、夜空に舞い散る火の粉のように煌いて闇に消えた。